与一の弓は平安時代末期に源義経の軍に所属し、活躍したとされている武将「那須与一」が使用していた弓です。
那須与一は平安時代末期1169~1190年頃に存在していたとされる武将であり、
那須家の父・那須資隆の十一男としてこの世に生を受けました。
かなり小柄な男で、約20年という短い生涯ながら、その伝説は今なお語り継がれています。
それは与一の人間離れした弓の腕前によるものなのです。
与一が使用していた弓はしばしば「与一の弓」という名で現代でも様々な作品で最強クラスの弓矢系の武器、
アイテムとして登場し、活躍しています。
そもそも与一の弓は与一の弓という名称ではなく、黒漆を塗り、藤をまいた重藤の弓という一般的な普通の弓でした。
与一の弓の正式名称はこちらの重藤の弓であり、所属していた源氏側の一般の兵士たちに支給される普通の弓だったのです。
しかし、これから紹介する「屋島の戦い」という戦いにおいて与一が残した「扇の的を撃ちぬく」という功績により、
与一の弓の腕が高く評価され、この重藤の弓が別名「与一の弓」と呼ばれるようになりました。
このエピソードは歴史の教科書などでも紹介されているので、かなり有名なエピソードですよね!
つまり、この武器は特別な能力や力はなく、那須与一の類まれな弓の腕前により伝説となった武器なのです!
那須与一は平安時代末期(1169年頃?)に那須家の十一男として誕生します。
名前の由来は十余る一という現代で言えば十一男、という意味でつけられました。
治承・寿永の乱において、兄・十郎為隆とともに源頼朝方につき従い、その弟である源義経の軍に所属していました。
幼いころより、弓の腕前は飛びぬけており居並ぶ兄弟の中でも群を抜いていたとか。
ただ、兄である十郎為隆の方が弓術は秀でていたとも言われています。
治承4年(1180年)ごろ那須岳で父と弓の稽古をしていた時、
ちょうど源義経公が必勝祈願のため那須温泉神社に来ていました。そこで与一たちは義経公に出会い、
父・資隆は与一と十郎為隆を源方に従軍させると約束したという逸話が残されています。
そして、源義経軍に所属していたある日、後に伝説となるあの「屋島の戦い」の火ぶたが切って落とされたのです! 戦いは義経方の優勢であり、勝負あったかに見えましたが、平氏側も踏ん張り、
戦場の屋島も日が落ち始め勝負はお預けとなります。
根拠地を焼かれ、失ってしまった平氏側は海への退却を余儀なくされ、やむなく海上に逃げていきました。
しかし、負けを認めたくなかった平氏方、自分たちは余裕だぞ!という意味も込め、
逃げ帰ったかに見えた平氏は海上の軍船に扇を立て源の軍を挑発したのです。
「そこの陸地から、この船に立てた扇を弓で見事打ちぬいて見せよ!」平氏軍から源軍への負け惜しみにも似た挑発でした。
これを見た義経はこの挑発に乗ってしまいます。
「誰ぞ、あの扇を打ち抜く自信のあるものはおるか!?」
この問いかけに兵たちは沈黙してしまいます。
なんせ、陸地から船の扇までは約72mもあり、扇なんて豆粒のように小さいのです。
さらに海の波により扇は千差万別の動きを見せており、とても打ち抜けるようなものではありませんでした。
それに、打ちそこなえば、その場できっと切腹になってしまうのでしょう。
この挑戦にこたえようとするものは誰一人いませんでした。
その状況を見て義経の側近であった武将・後藤実基はこう言いました。
「弓上手はいくらでもいますが、なかでも那須資隆の子、与一はかなりの弓の腕前にございます。このものに扇を打ち抜かせて
みせましょう!」
名指しで指名された与一はやむなく義経公の前に姿を見せます。
「かような扇を打ち抜くなど私にはとてもできません。」
与一はこんなことを企てた平氏に怒りながらも義経にこう言ったのです。
ですが義経は、「ぐずぐず言うな。義経の軍のものならばわしが射よと申せば射ってみせよ!」
といい与一に扇を打ち抜かせようとしました。
「ああ、私はここで死ぬのだな。」与一は、覚悟を決めました。
(ちなみに与一の兄である十郎為隆も指名されたが、ケガを負っていたため与一が代わりに指名されたとも言われている。)
「射ぬけるかどうか分かりませんがやってみましょう。」
与一は馬に乗って、静かに扇のある沖の方へと向かっていきました。
外せば死ぬ。それに扇は限りなく小さく、常に動き続けている、扇までの距離は、約72mあったそうです。
あたるはずがない・・
そんな死と隣り合わせの中、与一は落ち着いた表情で弓を構え、的である扇だけをただただ見つめていました。
それを見ていた義経や兵士たちも静まり返り、与一を見つめます。
ぎゅううっという弦を引き絞る音がして、ほどなく与一の弓から一本の矢が放たれました!
その矢は一直線に扇のもとに向かい、扇の根本、一寸ばかり残して見事に打ち抜き、射切れた扇は宙を舞いました!!
見ていた兵士たちは一斉に歓声をあげます!!
「うおお!見事だ!!与一!!」
義経方からはもちろんのこと、平氏方からも与一を褒めたたえる声が聞こえてきます!
しかし、次に義経は与一にこう告げます。「船で舞を踊っている、あの兵士も一緒に打て!」
義経の命令を聞き入れた与一は再度弓を構え、矢を放ちます。
その矢は見事に舞を踊っていた兵士に的中!兵士は息絶えます。
そこからまた両軍は戦闘モードに切り替わっていったのです・・
これが与一の弓にまつわる屋島の戦いの伝説です!
この功績を称え、那須家は荘園のうちの一つ、備中荏原荘を得たと言われています。
ただ与一の存在は同時代の史料などにはのっておらず、軍記物である「平家物語」などにのっているものばかりのようです。
ゆえに与一が実際に存在していたのかを疑問視する声もあります。
ただ、扇を打ち抜いた功績で得た備中荏荘を那須家が支配していた記述は残されており、
与一の実在の謎については今現在も議論が続けられています。
無属性
平野耕太による日本の漫画・アニメ作品「ドリフターズ」に那須与一が主要キャラとして登場する。
史実同様、弓の達人として活躍し、織田信長、島津豊久らとともに異世界で国奪りをするダークファンタジー漫画です。
年齢は19歳で、女性と見間違うほどの美少年として描かれています。その弓の腕前は弓を得意とするエルフたちよりも数段上
で、飛竜を撃退するなど作中では数々の功績をあげています。
ファイナルファンタジーシリーズにも登場。 最強クラスの弓矢として、たびたび与一の弓が登場しています。 その他、同じスクエアエニックスのサガフロンティア、討鬼伝、仁王2、星のドラゴンクエスト、モンストなどで活躍しています。